第一審はメアリヴィル市にあるテネシー州ブラント群巡回裁判所において争われた。原告は夫のジュニア、被告は妻のメアリー、キング医師である。胚を移植して出産したいというメアリーと、基本的にはそれを支持するキング医師に対して、ジュニアは次のように訴えた。(6)
(1)ディヴィス夫妻にたいして、ヒト胚の共同親権 (joint custody) を与えること。
(2)自分がそうしたヒト胚をどうするのか決めるまで、ディヴィス夫人ないしは他人が移植のためにそれらを使うことを禁止すること。
(3)もし上記二つの主張が認められないのであれば、ディヴィス夫人のみを移植に適した当事者と見なすこと。(ジュニアは胚の破壊には反対したが、他の不妊カップルに提供するくらいなら破棄する方を選ぶと主張した。)
本裁判におけるもっとも大きな争点となったのは、凍結胚は人なのかどうか、つまり「人の生はいつ始まるのか」(When does human life begins ?) という問いであった。判決では、第一に、前胚 (preembryo) と胚 (embryo) との区分、そして第二に、胚と新生児(=人)との区分を批判することで、「凍結胚は人である」、言いかえれば「人の生は受精に始まる」(Human life begins at conception.) という結論に到達している。そしてこの前提にもとづき、「子供ないしは子供たちの最善の利益」(the best interests of the child or children) という観点からディヴィス夫人に移植の機会を与えるものであった。
第一の区分とはいかなるものか。本判決が批判の対象としているアメリカ不妊学会倫理委員会報告書において、前胚は次のように定義されている。「前胚とは、受精から胚軸が現れるまでの配偶子結合の産物である。前胚の段階は、受精後14日ごろまで続くと考えられる。」(7) そして同報告書では、この前胚にたいして、「人間の組織 (human tissues) に認められるよりも大きな尊重を受けるに値する」としているが、その尊重は「現実の人格 (actual person) に認められる尊重ではない。」(8) つまりこの報告書では、人と(そして胚とも)異なる「道徳的および法的身分」が前胚に帰されており、この前提にもとづくかぎり、受精胚を子供と同一視することはできないのである。
判決において、前胚という用語は否定される。なぜなら、@前胚という用語が専門家によってすらも使われることのまれなものであり(9)、A前胚と胚とを分ける徴表とされている細胞分化 (cell differentiation) が、すでに前胚の時点で始まっているという科学的事実が認められるからである。重要なのは Aである。法廷では「分化する」(differentiate) という言葉を、「特定の差異により区分すること」(to distinguish by a specific difference)(10)と定義している。
そこで問題は、ある前胚は、他の前胚から区分されるような何らかの差異をもつのかということである。本判決では、フランス人の医師であり、基礎遺伝学の研究者でもあるジェローム・ルジュヌ氏の見解に与することで、この問いに対して肯定的な答えが出されている。その立場とは以下の二つである。(11)
a.三胚期 (three-cell stage) において各個体は他のどの個体からも独自なかたちで異なるということ、そしてある細胞に見られる遺伝情報が他人と同じである確立は10億分の1であること、これらはいまとなっては実験によって証明された事実である。
b.DNAの基礎の一部はメチル (CH3) と呼ばれる物質を運搬していることが実証された。そして精子によって運搬されるDNAは、卵子によって運搬される、対応する分子、染色体と同じ場所で起きるメチル化によって強調されることも、混ざることもない。つまり精子は、一定の情報を段階的に強調する能力を有しており、これは、精子と卵子とに由来する二セットの染色体が結合する時点で、それらは同一であると長年考えられてきたが、同一ではないという事実に帰着するプロセスで生じるのである。
しかしたとえ前胚と胚との区分に根拠がないとしても、胚と人との区分が正当であれば、やはり胚を作ることは子供を作ることとは異なるはずである。そこで問題は後者の区分となる。ところで、ヒト胚(=前胚)を人と見ることに反対する人々は、第一に、それが「分化していない細胞」であることを理由としている。しかしルジュヌ氏の見解を採用する以上、この理由は成り立たない。第二の理由としては、ヒト胚が器官、神経組織、身体部位をまったくもたないことが挙げられる。しかし受精の時点で、「人の全構成は、手、足、神経組織、その他同種のものを含む形で、明確に、あいまいな点なく書き込まれて」いる以上、この理由も説得的ではない。さらに、「ヒト胚は決して自らの生物学的潜在性を現実化することができない」というものだが、これも無意味と見なされる。なぜなら「新生児は自らの生物学的潜在性を現実化しえないが、新生児が人間であるという事実に異議を差し挟む人はいない」からである。
こうして〈前胚=ヒト胚=人〉という結論を下したうえで、裁判所は、「自らを守ることのできない人々の利益を監視する君主の力」である、「国父 (parens patriae) というコモン・ロー上の教説」を用いる。そしてこの観点から考えたとき、「移植が、それら〔凍結胚〕が生き残るための唯一の希望」である。なぜならこれらの胚は、このままでは死を待つのみだからである。つまり、「これらの子供を、移植を通じて出生させる機会をディヴィス夫人に認めることが、これらの子供の最善の利益にずっと適う」(12)のである。
(6)Davis v. Davis, No. E-14496, 1989 WL 140495, at 2108 (Tenn. Cir. Ct. Sept. 21, 1989), rev’d, No. 180, 1990 WL 130807 (Tenn. Ct. App. Sept. 13, 1990), aff’d, 842 S.W.2d 588 (Tenn. 1992)
(7)Ethical Considerations of the New Reproductive Technologies, v, vi, vii.
(8)Ib., p. 29.
(9)例えば次のように述べられている。「キング医師はアメリカ不妊学会のガイドラインにおける「前胚」の定義を採用し、前胚と胚とを区分しているが、彼は自分自身のノートではそれら〔前胚〕を胚と呼んでいる。これは奇妙であると考えられる。」Davis v. Davis, No. E-14496, 1989 WL 140495, at 2101 (Tenn. Cir. Ct. Sept. 21, 1989), rev’d, No. 180, 1990 WL 130807 (Tenn. Ct. App. Sept. 13, 1990), aff’d, 842 S.W.2d 588 (Tenn. 1992)
(10)Webster’s New Collegiate Dictionary, Second Edition.
(11)Davis v. Davis, No. E-14496, 1989 WL 140495, at 2111 (Tenn. Cir. Ct. Sept. 21, 1989), rev’d, No. 180, 1990 WL 130807 (Tenn. Ct. App. Sept. 13, 1990), aff’d, 842 S.W.2d 588 (Tenn. 1992)
(12)Davis v. Davis, No. E-14496, 1989 WL 140495, at 2104 (Tenn. Cir. Ct. Sept. 21, 1989), rev’d, No. 180, 1990 WL 130807 (Tenn. Ct. App. Sept. 13, 1990), aff’d, 842 S.W.2d 588 (Tenn. 1992)
堂囿俊彦(編/最相葉月)